想像-イメージ(仮)

 物心が付くよりもずっと前。母の実家から戻ったその日の夜、開け放った襖の向こうで父は死んでいた。今思うとまだ幼かった私は、それが慣れ親しんだ父親の姿であるのか、簡素な一体の人形であるのかさえ区別できていなかったように思う。
 当時はまだ和室が二つだけのアパートに住んでいて、そこかしこに年季の入った家具が置かれていた。生活道具も幾度となく使い古されてきたものばかりで、その家に新しいものなんて何一つ無い。テーブルの上や小物入れの中を覗いてみても、私よりも年上のずっと両親と生活を共にしてきた道具ばかりがあった。しかしその日の私は、偶然にも襖を開いた先の寝室で新しいものを一つ発見する。
 寝室と茶の間を隔てる襖の隙間に指を掛けて何気なくそれを開いた私は、暗がりの中に人の姿をした何かがあることに気付いた。普段は怖がって近寄りもしないはずの闇の中に、どうしたことかそのときは踏み入ってしまった。それが何なのか。まだ幼い少女に人の姿をしたものであるという認識はなく、ただこれまでに見たことのない何かに近付きたい、触れてみたいという好奇心がその背中を押していた。
 だが、そうしていたところですぐに異変は起きた。どこからともなく漂ってくる強烈な臭いに私は顔を顰め、同時に鼻を突く刺激に疑問を覚えた。それが何かの腐ったときに発せられるものだとすぐに理解していたが、そこでその物体に対して興味を失うことはなかった。決して面白いものではないと直感しておきながら、奇異の視線に変わったところで止まることはせず、小さな身体は静かに歩み寄ることを決める。
 言うまでもなく、そこにあったのは死体だった。ただ、見慣れた風貌と異なるその顔を覗き込んだとき、私はそれが父親の姿であるとは微塵も思わなかった。生々しく、辺りには蝿が集り、肉には幾つもの蛆が蠢き這いずり回る。その光景が如何に常識を逸脱していたことか。今にして思えば、少しポジティブに普通では考えられない経験をしたと捉えることも出来たが、本音ではそんな経験は捨ててしまいたかった。
 黒歴史とも呼べる幼少期の記憶。年端もいかない私はそれを見て泣き喚くことはしなかったが、当時の映像は幾分か成長した今となっても忘れることはなく、時としてはっきりとしたイメージとなって現れる。忘れてしまいたい。そう願ったところで忘れることが出来ないのは、間違いなくそれが大きな傷として気持ちのどこかに残っているからなのだということも分かっていた。しかし私が最も忘れたいのは好奇心で寝室に踏み込んでしまったことでも、直に父の死体を見てしまったことでもない。
「――あら。ごめんね、すぐに片付けるからテレビでも見て待ってなさいね」
 その存在に気付いた母が、平然と幼い娘に向かってそう言ってのけた言葉。それが、かつての記憶を引きずる今の私にとって、いち早く忘れ去りたいものとなっていた。もしかすると夢か、何かの間違いかも知れない。そう考えることも多々あったが、鮮明に思い出される記憶の中で母は、確かにそう言って微笑むのだ。
 只今執筆中。レイアウト確認のため掲載。